Fairy Tale ９
ひらひらと、雪が舞い降りる。
シンはそれを見上げ、ふるりと身を震わせてから家路を急いだ。
口には、百合の根っこを咥えている。
昨日、鹿を一頭倒したから、シンはお腹がいっぱいだ。仕舞って隠しておいたから、あと何日かは、狩をしないで済む。
アスランの食べるものを、探すことが出来る。
ケルベロスは、山の斜面に穴を掘って家を作る生き物だ。
シンが作ったのは、小さいながらも入り口に屋根をかけた、初めてにしては立派な家だった。
屋根の下には消えかけた焚き火があって、人の姿を取ったシンは、恐る恐る、その中へ採ってきた球根と、燃料の枯れ枝を押し込んだ。
野生の獣であるシンは、当然ながら火が怖い。
しかし、怖がっている場合ではないから、火の作り方を教わって、そうしてアスランが食べられる物はだいぶ増えた。
それでも、たぶん。まだ足りない。
寒くなるにつれ、アスランが少しづつ、しかし確実に弱っていくのがわかって、怖い。
あの時、俺が後先考えず飛び出して行かなければ。
せめて、春まで待っていれば。
でも、後悔なんかしても遅いから。
「アスラン、さん 」
入り口をくぐって、干した草で作った寝床に横たわる人に頬を寄せる。
冷えたそこに、もっと冷たい唇がキスをしてくれて、ほっとした。
「濡れてるな・・・」
「うん。雪降ってきた。ごめんなさい、寒かったでしょう？」
そう言ってまた獣の姿になると、小さな家はいっぱいになった。でも、いっぱいの方が、あったかい。
触れればアスランの体は思った以上に冷えていて、なんでもっと早く帰って来られなかったんだろうと悲しくなった。
きゅう、と、喉の下にあるアスランの頭に懐くと、アスランの左手が、シンの毛皮を撫でてくれた。
それに、目を細める。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
アスランの体をあたためたら、今採ってきたのを食べてもらおう。
大丈夫。まだ、食べられるものはある。
この冬さえ越せば、大丈夫。
アスラン、自分はまだ大丈夫だって言ってた。
普通の人間だったら、もう死んでるよって。
俺は、丈夫だから大丈夫だって。
シンは、やっとぬくもってきたアスランの首筋に鼻先を寄せた。とくん、とくんと、鼓動を感じる。
大丈夫。大丈夫。大丈夫・・・
シンが、必死になって自分にそう言い聞かせていると、アスランが不意に顔を上げてシンの瞳をのぞき込んだ。
生気のない翠の瞳に、どきりとする。
そうして、色を失った唇が、かすかに開いて。紡いだ言葉に、シンは呆然とした。
「シン、俺を、食べてくれないか？」
その意味が、理解できなかった。
それなのに、アスランは更に言葉を継いでいく。
「俺は、お前とずっと一緒にいたい。ずっと、ずっと、一緒にいたい。お前も、そう、言っていただろう・・・？」
顔を上げたアスランの、綺麗な綺麗な翠の瞳。
シンの大好きな、湖水の翠。
その底に沈む、絶望の色を見て。
シンは、息を飲んだ。
アスランの指が、シンの黒い毛皮を這う。
そうして、大切にたいせつに、抱きしめて。
「頼む。・・・お前が、好きなんだ」
それは、初めてもらう、アスランからの告白。
それなのに、苦しいばかりで、全然、嬉しくない。
「だから、お前に食べて欲しい。一片のこらず、俺を」
そうして艶を失った髪がシンの喉に擦り付けられる。
くぐもった声が、続く。
「骨ばかりで、あまり、美味くはないかも知れないが。・・・頼む、シン」
そうして疲れ切った声で。
「俺を、食べてくれ」
シンは慌てて人の姿を取った。
腕に抱き取った、その人の体。人型の薄い皮膚を通すと、細さが際立って、怖くて怖くて仕方がない。
「でも、食べたら、俺もう、あんたに抱きしめてもらえなくなる」
それは、嫌だよ。
シンの必死の様子にアスランはなんでもないことのように答えた。
「なら、左手だけ残して食えばいい」
お前を抱きしめる、この手だけは。
左手だけは、我慢するよ。だから。
「お前にだけは、棄てられたくないんだ」
シンの背にまわった左手に、かすかな力がこもった。
かすかだけれど、必死な、力だった。
親に、棄てられたのだと言っていた。
ずっと、守ろうとしていた人たちに、もう、いらないと棄てられたのだと。
その絶望がどんなものなのか、シンは知らない。
シンが、妹のことに夢中で、うっかり忘れてしまって。
その間に、彼が味わった絶望を、シンは、知らない。
想像もつかない。
それが、悲しくて、怖い。
「ダメだよ、ダメだ」
そう言ってふるふると首を振ると、アスランは、その瞳の絶望を深くして。
それから、ひとつぶ、涙をこぼした。
そうしてそれきり、何も言わず。
ただ目を閉じて。
シンはその身をかき抱き、声を殺して、泣いた。
次に目を覚ましたとき、アスランは何故か、丁寧に服に包まれていた。
シンに食事を勧められて、何かの根っこを本のひと口かじって。
「移動します」
そう言われて、ただ、頷いた。
今度はケモノではなく人の姿で丁寧に自分を運ぶシンに身を任せ。
アスランは何も言わず、ただ、されるがままにシンの腕に揺られて。
「アスランさん、この先に、俺たちが昔住んでたところがあるんです。
母さんが、体、弱くて。だから、群れから少し離れて、妖精の里の近くの、凄く、体にいい水が流れてきてるところに、頼んで、居させてもらってて。・・・だから、群れに守ってもらえなくて、殺されちゃったんだけど。
妖精の里には入れないけど、入り口に小屋があって、ここよりあったかくできるし。あそこの水、ほんとに効くし。・・・変わり者の妖精が、たまにいたりするから。その、あんたのこと、診てもらえるかも知れないし・・・」
思い出す、腹を裂かれた母さんの体。
焼け焦げた、父さんの死体。
あそこには、あまり行きたくはなかったけれど。
人間を好まない妖精が、アスラン診てくれるとはあまり思えないし、あの場所に留まらせてくれるとも、限らないけれど。
それでも、今、シンにできることは、それだけだから。
シンの言葉を、聞いているのかいないのか。
アスランは、ぼんやりと目を開いていたけれど、すぐに、閉じて。
シンの胸に、頬を寄せて。
洩れた吐息は小さくて、シンはその呟きを聞き逃す。
『そこに、俺を棄てるのか』
アスランを助けようと、必死のシンは気づかない。
腕の中で、どんどんと抜け落ちていく生気。
自分が、それを早めてしまっているということを。
シンが駆け込んだのは、山の中に突き出た岩場の合い間に立つ、小さな小屋だった。
記憶と寸分違わずそこにあったその中に、しかし人気まったくない。
シンはほんの少しだけ立ちつくし、しかしすぐに寝具を見つけて、そこへアスランを横たえた。
小さく咳き込む喉に水を、と、すぐにまた飛び出して、半ば凍った川に爪を立てた。
雪よりも、この水の方がいいはずだ。
アスラン、アスラン。お願いだから。
お願いだから、死なないで。
そうして、氷を口に含んで立ち上がり、しかしシンは、その氷が溶ける前に、吹き出してしまった。
「ここで何やってるの？君」
「ぶっ！げふっ！」
「汚いな・・・大丈夫？」
ほんの一瞬前まで、絶対そこにいなかったと断言できるシンの背後に、シンよりも、ほんの少し年長に見える少年が立っていた。
透ける紫の瞳。
雪も、ものともしない白い肌。
ひと目で、高位とわかる妖精だ。
「あんた、カガリ・・・じゃないよな」
記憶の中にある、昔、ここをよく訪れていた妖精は、この少年にとてもよく似ていたけれど、金の髪に日の色の瞳をしていた。
それに・・・なんというのか、もっと、「人間」らしかった。
「何？カガリと知り合いなの？」
そう言って首を傾げた彼は、なら、殺っちゃうわけにはいかないか、と、物騒なことを呟いている。
軽い口ぶりに反して、それは冗談では済まない響きを持っていた。
「ああ。そうだ。俺、昔ここにいて・・・助けて、もらえないかと思って」
それでも。
シンには今、他に縋るものがないから。
なんとかして、あの、気まぐれだが情にもろい妖精に取り次いでもらうか、せめて、この小屋を使う許可をもらわなければ。
「助ける？まあ、カガリはお人よしだからね・・・・」
ならやっぱり殺っちゃおう、と、これ見よがしに笑った少年に、シンは必死に言い募った。
「俺は、いいけど。仕方ないけど。でも、助けて欲しい人がいるんだ」
ひょう、と、雪混じりの風が吹いて、小屋の屋根が、カタカタと鳴る。寒い。
小屋の中のアスランも、きっと、とても寒いだろう。
もう、彼には移動するだけの体力も残っていない。
ならば、なんとしてでもここで踏み止まらなければ。
命に掛けて。
「命の対価を命で、か。まあ、僕らの流儀には叶ってるけど。でも、僕らだって万能じゃないよ？」
「俺じゃなんにも出来ないから。できることなら、なんだってしたいから・・・・」
なんとか協力してもらえそうな気配に、シンはぼろぼろと涙をこぼした。
今、この頼っていいかすらわからない相手に縋るしかない自分が、情けなかった。
それでも。
アスランが助かるなら。
もう、なんだって良くて。
「見るだけ見てあげる。カガリの友達じゃ仕方ない。そういえば、昔ここにケルベロスが何匹か住んでたよね。その時の子？」
「ああ。そうだ」
「ふぅん・・・」
思ったよりも冷酷ではない妖精の様子にほっと息をついて。
そうしてシンは、彼を小屋の中へと案内した。
アスランは、先ほどと変わらず、寝台に横たわり、かすかな息を継いでいる。
その様子に、シンの胸は締め付けられた。
「なあ、助かる？アスラン、助かるか？」
「・・・・・」
シンの問いに妖精は答えず。
ただ手を伸ばして、アスランの色を失った頬に触れた。
あの頬の冷たさを、シンは知っている。
今すぐ頬擦りしてあげたくなって。
でも、ぐっと我慢した。
「知ってる？僕達妖精を殺すのはね、絶望なんだ」
そうして、意味不明の妖精の言葉に、思わずその紫の瞳を見上げてしまう。
「アスランは半分人間だから、まだ生きてるけど。でも、半分人間だから、こんな怪我で苦しまなくちゃいけないんだね」
「半分、人間って」
「全部人間だったら、とうに死んでるよ。こんな、酷い傷・・・」
妖精は、そっと、そっとアスランの体を撫でていく。
アスランが目を覚ます気配はない。
ただ、浅い息のたびに、胸がかすかに上下するだけだ。
動かない右手、あばらの浮いた胸、もう上がらない左手、ぼろきれのような足、また戻って、冷たい頬へ。
妖精の真摯な仕草に、シンも黙ってそれを見守った。
でも、半分人間って、どういうこと？
「アスランは、２０年前に妖精の里を出て行った、レノア小母さんの息子だよ」
思いもかけない妖精の言葉に、シンはまじまじとアスランを凝視した。
だって彼は、どう見ても人間だったから。
人と同じに傷ついて、・・・傷付けられて。動けなく、なって。
しかし妖精の言葉に嘘はない。彼らは、人と違って嘘をつかない。
「小母さんとうちの母さんが仲良かったから、僕がよく見に行ったんだ。僕は先祖がえりで、人間の毒気に当たっても、なんともないからね」
そう言って、ちらりとシンに視線を戻した妖精の瞳に、シンはゾクリと背筋をあわ立てる。
その昔、人が栄える以前に、妖精の一族は、世界を支配していたのだという。
その力の片鱗を感じ取り、ごくりと生唾を飲み込んだシンは、それでも瞳に力を込めて、紫の瞳を見返した。
ここで怯んだら終り、そんな気がしたから。
「君に頼まれなくても、アスランは助けるよ。でも、君はその命を差し出すと約束した、そうだね」
「ああ」
シンは強い声でそう答え、妖精は、ふうん、と呟いて、頷いた。